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Beautiful Sky∼せんせいあのね∼

Dance for everything! 人生にエッセンスを…♡

Beautiful Sky

せんせいあのね∼アフリカ大陸ジンバブエでの活動記録∼

協力隊でアフリカなんて来なきゃよかった。そう思ってしまいました。

ひとりごと

先日、父親から家族LINEにメッセージが入りました。

 

「ばあちゃんが倒れた」

 

脳梗塞だったようです。幸いなことに、命に別条はないようです。ですが、言語の障害は残ってしまうそうです。

 

ばあちゃんとは、私が生まれたときから高校を卒業するまでの18年間一緒に暮らしました。

 

私が小さいとき、両親は共働きで、おじいちゃんとおばあちゃんが保育所に送り迎えしてくれました。

 

私が小学生の時、両親と一緒に参観日に学校に来てくれました。夏にはよく、一緒に蛍を見に行きました。

 

私が中学生の時、学校の成績を見せるとよく「さおりちゃんが一番じゃね」とほめてくれました。夏の暑い日、部活を終えて家に帰るとばあちゃんはよくそうめんをゆでて待っていてくれました。

 

私が高校生の時、夜遅く塾から帰ると、寝ていたにも関わらず、起きてきて「おかえり」といってくれました。塾の帰り、両親が迎えに来れない時には、自転車で駅まで迎えに来てくれました。

 

私が大学生になって、広島の実家を離れ、長崎で一人暮らしをしているとき、よく段ボール箱いっぱいの食料を送ってくれました。ばあちゃんが作った野菜とみそは、よく大学の友達にもおすそ分けしました。

久しぶりに実家に帰ったときには、食べきれないくらいのご飯を作ってくれました。友達と飲みに行く、と言いづらくなってしまうほど、毎日のご飯を気にしてくれていました。大学生になっても相変わらず、私の帰りが遅いと家の前まで出て、私の帰りを待ってくれていました。

 

実家で暮らしていた時、

階段をドンドンと叩いて「さおちゃん、さおちゃん!!!!」とよく叫ばれました。

私が二階の部屋から「何?」と返事をすると、

「おるんね!」といって、私が二階にいることだけ確認してよく去っていきました(笑)

 

まだお茶碗にご飯が入っているにも関わらず

「おかわりは?」

と聞いてきました。

「まだあるけんいいよ」

といっても、何度も聞いてきました。

 

「はよ帰ってくるんよ」

「飛び出さんのんよ」

「変な人についていかんのんよ」

小さいときから、大人になった今でもよく言われました。

 

私が大学を決めるとき、ばあちゃんは私に広島に残ってほしかったのを、私は知っていました。それでも私は県外に出てしまいました。

私が就職を決めるとき、ばあちゃんは私に、広島に帰ってほしかったのを、私は知っていました。それでも私は、遠く離れたアフリカに来てしまいました。

ばあちゃんは私に「ここが一番ええんよ。戻ってきんさいね」とよく言いました。そのたびに、いろんなところに行ってみたいと思っていた私は、なんだかもどかしい気持ちになりました。

 

ばあちゃんと一緒にいて、たくさんの愛をもらっていたにもかかわらず、私はそれをたまにうっとおしく思ってしまうことがありました。ばあちゃんは何も悪くないのに、きつく当たってしまったこともありました。いつかの手紙でそれをばあちゃんに謝ったのを覚えています。

 

私が大学生になってからだったと思います。

ばあちゃんは、何回か、「死ぬのが怖い」と私に言いました。

掘りごたつに一緒に座って、話をしているときです。ばあちゃんが忙しくて疲れていた時にその言葉は出てきました。「はぁもうばあちゃんも歳じゃわ」といっていました。

私がそのたびに「ばあちゃんは元気じゃけん、まだまだ大丈夫よねえ。長生きするわいね」というと、安心したように、嬉しそうに笑いました。私も笑いました。

私はその時、ほんとは、いつも胸がいっぱいでした。

 

それから私は年を取るのが嫌になりました。

自分が歳をとるということは、周りの人も歳をとるということだからです。

つまり、当然ですが、ばあちゃんも歳をとるのです。

私は、自分はどんどん大人になっていました。あっという間に23歳です。ばあちゃんは気が付いたら81歳です。ばあちゃんはもう、おばあちゃんです。

これ以上時間が進んでほしくないと、本気でそう思ってしまっている自分がいました。

 

私がアフリカに来て5カ月。ばあちゃんは携帯を持っていないので、父さんが家にいる土日のどちらかで、たまにLINE電話をしました。父さんはじいちゃんばあちゃんにも電話を代わってくれます。

「さおちゃん、元気にしとる?」

「日本は暑いんよ、そっちはどう?」

「ご飯は何たべよん?」

「なんか日本から送るもんはない?」

「戸締りしっかりせんにゃだめよ」

いつもこんな風に話をしました。

 

正直な話、アフリカに来ると決めてから、ちょっとだけばあちゃんたちが心配でした。もうすっかり歳なのを、私は知っていました。でも、自転車に乗るばあちゃん、畑仕事をするばあちゃんを見て、2年は元気でいてくれると、そう思いました。実際に、ばあちゃんは元気でした。

 

そしたら先日、父さんから家族LINEにメッセージがありました。

 

「ばあちゃんが倒れた」

 

脳梗塞だったみたいです。幸いなことに、命に別条はないようです。でも、言語の障害は残るらしいです。

 

私は大学で作業療法の勉強をして、実習で病院にも行っていたので、少しだけその病気について知っていました。実習に行っているときは、まさか自分のばあちゃんがそうなるとは思ってもいませんでした。思いたくもありませんでした。でも、なってしまいました。

 

父さんからのメッセージを見て、悲しくて、涙が出ました。

言葉の障害が残るということは、もう、ああやって、私にいっぱいお世話を焼く言葉が聞けないということかと、そう想像して、涙が出ました。

 

今日、父さんが病院に行ってくれているときに、私に電話をしてくれました。

テレビ電話で病院にいるばあちゃんに電話を代わってくれました。ばあちゃんの顔が見えました。ばあちゃんは私に何も言いませんでした。

でも、父さんいわく、短い単語は話せるみたいです。それに、父さんが治してくれると言ってくれました。

 

私は、ばあちゃんの顔を見て、挨拶しかできませんでした。あんなにはきはきして元気だったばあちゃんが、病院のベットで寝ていて、私に何も言ってくれないことが、信じられなかったからです。なんだかさみしくなって、電話を切った後にまた涙が出ました。

 

こんな時に、なんで私はここにいるんだろう、と、そう思いました。

どうして今、会いに行って、大丈夫だよって手すら握ってあげられないんだろう。日本に帰りたくなりました。自分を育ててくれた、こんなに大切な人を置いてまで、どうしてアフリカに来なきゃいけなかったんだろう、と、そう思いました。自分で選んだ道であるにもかかわらず、協力隊なんて、こなきゃよかった、と、ここにきて初めて、そう思ってしまいました。

 

でも父さんと、母さんと、父さんのお姉ちゃんが言いました。「さおりはまだ帰らなくていいからね」と。

その言葉だけで彼らが私に言いたいことはわかります。だから私は、まだここで活動を続けることにしました。でも、まだ、なんで大切な人を置いてまでここに来たかったのか、と、考えてしまいます。協力隊なんて来なきゃよかったと、心のどこかで思ってしまいます。それに、ずっとばあちゃんのことも考えてしまいます。

 

冬休みに母さんは、日本に一時帰国してくれるらしいです。兄ちゃんも、日本に帰るので、お正月には実家に帰ってくれるらしいです。父さんがじいちゃんとばあちゃんを支えてくれるみたいです。だから私はまだここで頑張ります。来させてもらったからには、まだ、ここで頑張ります。でも2年のうちのどこかで一回一時帰国しようかなとは考えています。

 

ばあちゃんが倒れたって聞いて、今まで以上にばあちゃんへの愛があふれてきました。感謝の気持ちがあふれてきました。いなくなってしまう前に気が付けてよかったです。

 

2年して任期が終わって、日本に帰ったら、ためたお金で家族旅行に行きたいです。のんびり、自然がいっぱいあるところがいいです。それと、温泉がいいです。じいちゃんばあちゃん孝行したいなとおもいます。

 

なので、ばあちゃんにはまた元気になってもらわなきゃいけません。リハビリはしんどいかもしれませんが、ちゃんとやってねって言います。できるだけ電話をして、顔も見たいし話もしたいです。なんか、うちのばあちゃんならすぐ復活しそうな気もしています。でもゆっくりでいいので、よくなってくれることを、心から願っています。